映画へのコメント


「朱霊たち」は日本人が他の文化の要素を統合する能力の新たな一例だ。それは まるで 日本人の魂が、その自然、歴史、性、死、そして飲み食べるといった全人間に共 通した 物語の源の真近にあり、他の民族にもまして普遍的なものに到達できるかのようだ。
--ヤン デデ ( 編集者 監督。71年〜76年までフラ ンソワ トリフォー作品の主任編集者)


岩名雅記は、限られた場所(トポス)に深く、多層的・多孔的な無数の時間の穴を穿つ。そこでは、ベルクソン流に言うと、「知覚のなかで動かずに凍っていたところが、元どおり温まって動きはじめる」。『朱霊たち』は、彼のそうした時間の持続を生身の舞踏とはことなる相のもとで可視化したものであり、見る者は、そのラビュリンスを夢遊する。
-- 粉川哲夫 (メディア評論家) http://cinema.translocal.jp/


死と生、聖と俗に彩られた少年版 「不思議の国のアリス」
-- 諸星大二郎(漫画家)


ジェラシー、大した才能が生まれたぞ!!
-- 大野慶人(舞踏家)


不治の病人と特攻崩れの設定、マリアの秘儀、そして奇跡を伏線とした展開など、21世紀では時代錯誤どころかキッチュとも思われるかもしれない。しかしそれを堂々と確かな映像で物語っていくこの映画は、デンマークが生んだ名監督ドレイヤーの傑作で無信仰の我々の心をも動揺させる「オルデット(言葉)」(邦題「奇跡」)を思い起こさせる。それはいくら生に絶望しながらもやはり希望を託さずにはいられない人間の魂に直接語りかけるからであろうか。
-- 坂田英三(画家・在仏)


ヒモ、壁の襞、海岸、洞窟、折れた樹木、風、光など岩名さんの映画の中のモノには 重い粘りがある。
ちゃんと重力を身に背負っている事物が映っている。
いろいろなモノに比べると演技している時のヒトは軽くて浮遊している。
だから演技しているヒトとモノが同時に映っている場面には隙間がある。
これはヒトが言葉を話したり、よけいなことを考えたりするからしょうがないことな のだろう。
ところが、時々、手が大写しになったりして、映画がブトーモードになると、ヒトが 映っているのにスクリーンのどこにもヒトがいなくなる。
ヒトが映っているのにヒトが消滅して、ヒトと周りのモノの隙間が埋まる。
ヒトがいるのに、画面は重いモノだけの密な景色になる。
ブトーとはヒトをモノにすることだとこの映画を見て知った。
-- 佐々木正人 (東大教授。アフォーダンス理論・生態心理学 )


物体化した身体だからこそ「死」を語ることができる。戦後7年目の東京、治癒不可能な重病患者がガス吸引による「制度的な死」を待ち望む数日間。極めて象徴的に描かれる「SEX」と「少年」、そして「不具」。この何重にもねじれた「生と死」の関係は、「物体」と「生命」の間に漂う「こころ」の存在を浮き上がらせる。「死」を「生」の補集合としてではなく、それに直接、意味を与えることは、無自覚な日常を「生きる」僕らには可能なのだろうか。
-- 水島 久光 (東海大学助教授) http://blog.drecom.jp/sammyhm


戦後間もない日本に育った私は、この映画で見事に再現された50年代の混乱と活気と猥雑を覚えています。人物たちはその活気と混乱から隔離され死に至る病で処刑を待つという非現実的空間の中、肩を寄せあって生きている。そのまわりは静かで穏やかな牧歌的風景。この自然が映画の重いテーマ、暗さや恐れに光を投げかける。
-- 嶋田明代(在米国)


自分で死ぬことがはできないが、死なざるを得ないと決めた連中は、制度的に死ねる条件を満たそうとする。彼らにとって明らかなことは「生」という封印された牢獄から自由になる前に、残された時間をいかに使うかということだ。これは果てしなく繰り返される生の苦悩をだましながら或いは癒しながら「死をあえて生きて見せる生命そのもののダンス」のようには見えないだろうか?3カ国語が対話して展開する「朱霊たち」は、それぞれの文化や個人的な体験の違いを越えて、異口同音に「こころ」を探るよう招いてくる。
--川島武将 (構造生物学研究者・在米)


「朱霊たち」は私を迫りくる死の時空間に落としこむ。映像と音の雰囲気、幽閉、モノなるからだの生々しさ、戦争の痕跡、幼年時代への繋がりがこのイニシャテックな旅を形成する。映画的エクリチュールの一つ一つの要素が岩名雅記の陰影の世界に加担する、心を掴む俳優兼ダンサーたちがもたらした特異な映画だ。
--アンジェラ・ロリエ(サーカス芸人、在仏)


<死へまっしぐらに向かう男女の秘儀!__死は性愛の裏側で、聖なる世界へと通じている>岩名は、『朱霊たち』を舞踏劇映画と名づけている。ラスト近く「海ゆかば」が流れ、館の病人たちはさらに死へと近づいていく。眠りゆくように、舞踏者は死者と共に踊る。青空は、戦争の果てに、私たちの肉体を輝かせただろうか。死に切れない男たちがいる。死に切れない女たちがいる。そこから、まさに舞踏は輝きを増していくだ ろう。舞踏とは、戦後ニッポンへの最終戦争なのである。
--國貞陽一(フリーライター) 

 
「朱霊たち」を観て
かつて土方巽は「記憶というものは、食べられて失われなくなったものの総和じゃないだろうか。」といった。だから、記憶が思い出されるとき、身を抉り取られるような感覚をともなうのだろう。「朱霊たち」の映像は観る者に向かって、なにか鈍器のようなもので斬りかかってくる。この重く絶たれた感じが、身に覚えのない記憶まで蘇えらせる。怖ろしい映画だと思う。
--國吉和子(舞踊研究・評論)


『生き方にもこだわりを持つように、死に方にもこだわりたい』人生の悩みがまた一つ増えました。 
--FlipFlap (双子タレント)


美しくも摩訶不思議な光の織りなす白黒のフィルム《朱霊たち》は、「はしご」と地下納骨堂によってのみ到達できる迷路屋敷という隠喩的舞台を創り出している。 地下納骨堂は風が吹き抜ける海岸へと通じ、その砂浜で、生きながら死んでいる者たちが、『全て』である無の安息所に憧憬をいだく。シュールは私には現実だ。 死としての生、生としての死、浮遊する天国。マサキ、ありがとう。
--セレスト・へイスティングズ(米ダンサー)


「少年」がつかの間の夢を見ているのではなく、我々が自身の少年時代の夢を見続けている。もしくは「少年」こそが命がけで突っ立ったアルターエゴ(もうひとりの自分)かもしれない。
飛行機が飛来してチラシをばら撒き、その生きている様なチラシに誘導され館に入る。 枯れた木立に登り、その生きているチラシを受け取り少年が倒れ落ち、ヒノマルに当たり、ヒノマルが踊りだす。このシークエンスは舞踏や憑き物の移り変わりをあわらす素晴しいシークエンスとして映る。
--ヴィヴィアン佐藤(ドラッグクィーン・非建築家)


愛しき人生、滅び行く人生の 
   閃光の温かさ。 
--近藤 秀實 (多摩美術大学教授)



粉川哲夫 (メディア評論家) http://cinema.translocal.jp/

志賀信夫 (舞踊評論家)http://buto.air-nifty.com/

坂田英三(画家・在仏) http://geocities.yahoo.co.jp/gl/eizoart

水島 久光 (東海大学助教授) http://blog.drecom.jp/sammyhm

國貞陽一 (フリーライター)http://blog.livedoor.jp/planet_knsd/archives/50768175.html

日本インターネット新聞 JANJAN に「朱霊たち」の記事が出ました。 http://www.janjan.jp/culture/0701/0701110926/1.php